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Mail返信
今日は朝一番で患者さんをみてギリギリ飛行機に間に合い米国のカリフォルニア州に到着しました。Cedars-Sinai Medical Centerにて明日、明後日と行われるAdvances in facial plastic and reconstructive surgeryのコースに参加する予定です。


先日の福田首相の自衛隊観閲式での発言が気になりました。
「国の防衛は国民の信頼なくしてはなし得ません。特に幹部諸官はこのことを強く自覚し、厳正な規律を保持する必要があります。その上で幹部はもとよりすべての隊員の一人ひとりが能力を高め、誇りをもって職務に精励し、国民の期待に真に応えていくことを切望します。」

誇りをもって国のために戦った兵士を奉った靖国神社に参拝しないと明言している福田首相にこのような訓示をいただいても白々しく感じるのは私だけでしょうか?

一国の首相がかつて誇りをもって職務に精励し、国民の期待に真に応えるべく戦場で命を落とした者たちへ敬意をもった対応をせずにその責務を負う者たちに首相自身の希望を「切望します。」と述べられてもそれはただの「願望の押し付け」に見えてやるせない気持ちなります。

日本人の多くはお盆に代表されるように古来から死者の御霊を弔う風習があったと思います。
現在憲法で政教分離が定められているからといって当時の方々は死後は靖国に奉られると信じ職務に殉じたのですから首相の立場にある者は230万余柱の方々の意を汲み取って御霊を弔う対応をするべきだと思います。


メール返信を行って数通返信不能なメールがありましたのでここでご返信させていただきます。

Mail 1

> ○○クリニックでプロテーゼをいれたのですが、貴院で、鼻を下向きにする手術を行うにはプロテーゼを一度除去するのですか?


場合によりますので診察が必要となります。

Mail 2

>電話で聞いたSBM価格についての説明がモバイルサイトに見当たらないのですが
パソコンからでないと閲覧できないのでしょうか?

はい。
ご不便おかけしまして申し訳ございませんが「SBM価格について」はPC版にのみ掲載されております。PCにてご一読のほどよろしくお願い申し上げます。
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by shirayuribeauty | 2007-11-02 01:51 | 美容外科
stanford university
今日でstanford university(スタンフォード大学)のstanford facial plastic surgery courseが終わりました。

cadaver(御遺体)を使ってのsurgery trainingでしたが米国の医師たちの勉強できる境遇は正直いってうらやましいです。 日本ではなかなか困難です。 



この数日間、色々メールでご意見ご指摘くださった方々ありがとうございました。

HPの2667は間違いではなくて皇紀です。
ブログのMALEはMAILの間違いです。  ごめんなさい。
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by shirayuribeauty | 2007-10-27 09:30 | その他
9月2日
今日は1945年 に重光葵(しげみつ まもる)外相以下9名の日本代表団が東京湾に浮かぶ連合国軍戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印し、連合国軍に公式に降伏した日なります。

降伏式中ミズーリの甲板は二枚の星条旗で飾られていました。一枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物、もう一枚は1853年の黒船来航時にマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物であり、約90年越しの勝利として日本に二度目の屈辱を与えました。

このミズーリは大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機によって右舷艦尾に特攻されています。無念ながら爆弾は炸裂せず機体のみが激突後砕け散りミズーリにかすかなへこみのみを残しました。

この特攻機は鹿児島県の鹿屋(大隅半島)を飛び立った「第五建武隊」(計十六機)のうちの一機、石野節雄・二等飛行兵曹(当時十九歳・岡山県出身)が操るゼロ戦でした。 

<特攻機がミズーリに体当たりする直前>
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無念ながら日本は敗戦しましたが我国の現在の繁栄は日本の自主独立と東亜の安定のために命を捧げて戦ってくださった方々および連合国軍の非人道的な虐殺行為で亡くなった多くの方々の犠牲の上に成り立っています。 

深く深く深謝するとともに追悼の意を表します。
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by shirayuribeauty | 2007-09-02 22:28 | その他
占守島(しゅむしゅとう)の戦い
1945年の8月18日未明、占守島(しゅむしゅとう)〔千島列島の北東端を占める島・千島列島唯一のソ連軍との激戦地〕にソ連軍が侵攻し日本軍と戦闘になりました。

8月15日の玉音放送後、日本軍は武装解除を行い本土に帰る準備を進めてていましたが18日の国籍不明軍によるこの攻撃により防衛配置につき国防のため、そして島に残る婦女子のために日本軍として最後の組織的戦闘を行いました。
 
当時占守島には缶詰工場で働く約400人の若い女子工員がいました。ソ連軍による婦女子の陵辱を恐れた占守島司令部隊は、一斉の高射砲攻撃の中、島にあった独航船20数隻に女性を乗せ無事に北海道に脱出させることに成功しました。

占守島の兵士はノモンハン事件やガダルカナル島の生き残りが多く実戦経験があり、士気も高く、ソ連軍の一日で占守島を占領し北海道まで侵略する作戦を押しとどめるどころかあとわずかの攻撃で日本軍がソ連軍を殲滅という体勢にまでなりました。しかしそのとき、札幌の方面軍司令部から「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との軍命令が届き、停戦交渉を開始せざるを得なくなりました。

占守島における日本軍の最終的な武装解除がなされたのは8月24日になります。日本では、8月15日を終戦の日として扱っていますが、その後も祖国を守る戦いは占守島では続いていました。


島を死守し、婦女子を保護し、祖国を守るべく戦い抜いた日本兵士達は、戦闘終了後帰国できるはずがソ連に極寒のシベリアに強制連行され奴隷労働に従事させられ多くが命を落としました。

故郷に帰り、家族に会えるという望みをがあったにもかかわらず終戦後も命をかけて守るべきものを守る為に戦い、かろうじて生き残った者も不法なシベリア抑留までされて散っていった彼らを日本人は決して忘れてはならないと思います。

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遊就館内パンフレットより
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by shirayuribeauty | 2007-08-18 00:14 | その他
千鳥ヶ淵(ちどりがふち)戦没者墓苑、靖国神社
今日は1945年 ポツダム宣言受諾の決定を日本国民に知らせる昭和天皇自身に肉声によるラジオ放送(いわゆる玉音放送ぎょくおんほうそう)が行われた日になります。

未明にこのポツダム宣言の受諾に反対する士官達によるクーデター未遂事件(宮城事件)が鎮圧された上での放送でした。

天皇が御前会議での聖断によってポツダム宣言の受諾を決定し中立国を通して連合国に通告したのが8月10日、ポツダム宣言受諾が確定し受諾の詔勅が発せられたのは8月14日、軍隊への停戦命令が出されたのは8月16日、日本政府が降伏文書に調印したのは9月2日、ソ連との戦闘終結は9月4日であり8月15日今日は玉音放送の放送日にすぎないといえばそれまでですが玉音放送はそれまで正式に放送されたことのない昭和天皇の肉声による放送であり日本人にとっては衝撃的な放送でした。今日8月15日はお盆にあたることから死者の魂を追憶し供養すべき日として日本人の意識のなかに根付いてきた以上、先の大戦にて鬼籍に入られた方々の弔いを本日行うことは意味があることだと思います。

先の大戦に際し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約210万人それに戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人約30万人で、合わせて約240万人と言われています。

日本の首相、ならびに閣僚のほとんどが本日靖国神社を参拝しなかったことは遺憾です。

私は無名戦没者のお墓である千鳥ヶ淵(ちどりがふち)戦没者墓苑からお参りにいきました。
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献花も滞りなく終わりご冥福をお祈りしました。
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多くの人々が「今度会うのは靖国神社で」との思いを残して国のために散華しました。国防のため殉ぜられた方々の魂は靖国に集います。
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こちらは多くの人々であふれ本殿に参拝するまで時間を要しました。

日本のために散華された方々に深謝いたします。
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by shirayuribeauty | 2007-08-15 23:58 | その他
リボン
今日は1945年ソ連が当時の満州国において対日参戦 してきた日になります。

また長崎市に午前11時2分原子爆弾ファットマンが投下された日になります。
長崎市の人口約24万人のうち約14万8千人が死傷しました。

敗北寸前の日本に対しての原子爆弾投下はほぼ戦略上無意味であり二発もの原子爆弾を無辜の老幼婦女子に落とした当時の米国はまさに鬼畜米国でした。

先日九州からいらした患者さんがある歌を教えてくれました。


槙健一氏(享年32歳平成14年9月1日御永眠)のリボン(クリックしてください)という曲でした。

リボン  
     
作詩・槙健一
作曲・槙健一
編曲・関淳二郎

素敵な街だと 訪れてきた人々は言う
あの石畳も上りつめれば どこか切ない夢の中ヘ

祈りを込めて今 千羽の鶴を飛び立たせよう
大地を踏みしめた平和の像も
指を掲げてる 高く高くと掲げている

◆どんなに風の中へ 悲しみ飛ばしても
この長崎(まち)はあの日を忘れない
涙に唄う歌は 明日への希望の歌
心に響けば 天まで届く
そして今 僕らが願いを込めた リポンが風に舞う

ひまわりが空を仰ぎ 太陽を眺め
あの焼けた夏の日も 咲いていたのか
怯えた心に強く強くと 叫んでいたのか

あの日の黒い雨が 街を呑み込んだ
痛みと怒りと涙の日よ
暮れゆく夏の空に 涙が落ちてくる
帰らぬ友よ 無駄にはせぬと
だから今 僕らはピースを掲げ 平和を祈り続けよう

◆Repeat

◇今日のために 明日のために 永遠のために
いつか僕らが 命果てても 平和が消えないように

今日のために 明日のために 永遠のために
いつか僕らが 命果てても リボンよ風に舞え

◇Repeat


当時の米国は鬼畜米国ですがそれをいくら憎んでも失われた人々は戻ってきません。
無辜の老幼婦女子が虐殺されることのない世の中になるように自分にできることを身の回りから一つ一つしかやっていくしかありません。
素晴らしい曲を教えてくださったことに深謝いたします。
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by shirayuribeauty | 2007-08-09 02:02 | その他
解剖
今日は1853年にマシュー・ペリー米東インド艦隊指令長官が、米国大統領の親書を携え軍艦4隻で浦賀に来航した日になります。 この黒船来航にて日本の太平洋における新たな歴史が始まることとなりました。

今日はある大学の解剖室で解剖を行いました。
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日本の大学(二人の学生あたり一体を約半年かけて)、米国の大学(4~5人の学生あたり一体を約半年かけて)とに続き三箇所目の施設におけるたった一日の解剖でしたが色々と驚くことがありました。 まず大学の前にはストリートチルドレンが物欲しげに手を差し伸べていたり、ご遺体に何発もの銃創があったりして明らかに通常の病死ではないようなご遺体が含まれていたり、二人の医師にたった一日の解剖なのに一人のご遺体が供与される等々・・・

外科医としてやってきて常に立ち戻るのは解剖学であり、学生のときとは違った視点をもって行う解剖の意義は非常に高いため切望した解剖でしたがなんだか心に重いものが残りました。 

解剖の機会を与えてくださった関係者各位には深謝いたします。
いつか皆様に恩返しができますように。
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by shirayuribeauty | 2007-07-08 23:41 | 美容外科
モンテンルパ
今日は1953年に日比両政府がフィリピンのモンテンルパ刑務所に収監されていた日本人戦犯106名の減刑・釈放に合意した日になります。

ああモンテンルパの夜は更けて という歌を知っていますか?

この歌はフィリピンの日本人B級戦犯死刑囚により作詞作曲され、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡辺はま子氏になります。

1952年大東亜戦争終戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいました。その異国の一つにフィリピンがあり日本人戦犯はモンテンルパ刑務所に収監され処刑されていっていました。

渡辺はま子氏は「ああモンテンルパの夜は更けて」のレコード化に奔走して、遂に大ヒットさせました。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くがフィリピンにおける同胞の悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まりました。


1952年年12月24日、歌手・渡辺はま子氏のこの歌がモンテンルパの刑務所の中を流れました。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子氏は振袖を着て歌いました。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえたといわれています。会場にいたフィリピンの元駐日大使デュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めましたが多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もいたとされています。

しかしこの「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーがそれを聞いたフィリピン大統領のキリノ氏の心を動かし日比両国の日本人戦犯106名の減刑・釈放合意につながりました。 

フィリピンは1898年6月12日独立宣言するも米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ人により無残に虐殺され1946年7月4日に米国から独立の承認を得るまでに実に50年近くの歳月を要した国になります。
その間にも日本が大東亜戦争開戦直後よりフィリピンにある米軍基地を叩くためにフィリピンに侵攻しフィリピンの人々に多大な迷惑をかけました。

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マレーの虎と呼ばれた山下 奉文(やました ともゆき)陸軍大将が戦勝国による軍事裁判にて絞首刑に処されたマニラにて。  東洋の平和を祈り合掌。
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by shirayuribeauty | 2007-07-06 22:02 | 美容外科
二重切開術、目頭切開、たれ目形成術 : アンブロワーズ・パレ
本日ご紹介の患者さんは約半年前に二重切開術、目頭切開、たれ目形成術をお受けになられた患者さんです。
もともと黒目の下に余裕がなくたれ目形成を行うといわゆる「三白眼」になってしまうため医師としてはお勧めできない旨を強くお話しましたが「カラーコンタクトをつけるのでどうしてもしてほしい」とのご依頼にて施術をお受けすることとなりました。

上段:術前です。
下段:術後約半年後再診時です。(写真は患者さんの快諾を得て供覧しています)
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目頭切開はミニZ法で行っています。
非常に順調とのことでしたが今度は目尻切開をしたいとのことでした。
目をより大きくしたいお気持ちはわかるのですが手術というものは欲張りすぎると好ましくない結果を招くことがあります。
このへんでご満足いただきたいとお願いしました。

美容外科手術にたずさわってきて悩むのが医師側と患者さん側との意識の差です。
私としてはキズの残る可能性や感染の可能性をお話しそれらのリスクを御納得いただいて万が一不具合が生じた場合はいわば全力で患者さんと共闘するつもりで手術に望むのですが中には医師を魔法使いのように考えリスクなしでなんでもできるとお考えなのかやめたほうがいいと強くアドバイスしても楽観的にお考えになられるのかお薦めできない手術を「やって欲しい」と懇願してご依頼され結果として希望されない状態になったときに医師を非常に責め立てる方がいらっしゃいます。

最近「ここまでリスクを話してご納得いただいてそれでもご依頼されるのであれば患者さんのためにメスを握ろう」という気持ちから「いくらリスクを話しても実感としてわかっていらっしゃらない患者さんの思いを尊重するのは実は患者さんのためになっていない。患者さんにとって将来不利益になりえる確率が高ければ心を鬼して患者さんのために断固として断るべきである。」というふうに考えが変わってきました。 「そんなの医者の悪しきパターナリズム【paternalism】(父親的干渉)じゃないか」といわれればそうなのかも知れませんがやはり万が一の事態になったときに術前のご説明と同意は無かったのごとく振舞われると私の落ち込みも激しいものがあります。
手術の最終仕上がりまでは最低でも半年はかかります。いくら文明が進歩しても人間のもつ自然治癒のスピードはそうは変わりません。

約400年以上前に外科学を革新した名医であるフランスの外科医アンブロワーズ・パレが言った「我包帯す、神、癒し賜う」は名言であり核心をついていると思います。

キズが癒え、治癒していくのは患者さんの治癒力によるのであり医師はその治癒の妨げにならないようにしなくてはなりません。

人の造作を人為的に創りかえるという行為は自然の摂理に反しているのかも知れません。 だからこそ細心の注意を払い自然の摂理になるべく沿うように医療行為を行っていかなければならないと思います。

メイヨー兄弟の格言
Charles・H・Mayo
31.医師が相談を受けるさまざまな症状の中で、痛みはどのようなものであれもっとも一般的な症状で多くの場合緊急な処置を要します。痛みの性質を適切に見極めることができれば、痛みは症状の中では有力な診断根拠のしるべとなるでしょう。

William・J・Mayo
31.今後の文明と知的発達は、予防医学の発展に大きく依存しています。
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by shirayuribeauty | 2007-04-13 00:00 | 美容外科
鎮魂
4月11日の今日は1942年にフィリピンのコレヒドールに司令部を置いていたダグラス・マッカーサー将軍が日本軍の攻撃に耐え切れずオーストラリアへと逃れた日となります。

また、大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機が米国戦艦「ミズーリ」の右舷艦尾に体当たりした日でもあります。無念ながら爆弾は炸裂せず機体のみが激突後砕け散りミズーリにかすかなへこみを残しました。

この特攻機は鹿児島県の鹿屋(大隅半島)を飛び立った「第五建武隊」(計十六機)のうちの一機、石野節雄・二等飛行兵曹(当時十九歳・岡山県出身)が操るゼロ戦でした。 

<特攻機がミズーリに体当たりする直前>
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戦艦ミズーリは昭和20年(1945年)9月2日、 重光葵(しげみつ まもる)外相以下9名の日本代表団が東京湾上で降伏文書に調印した船として有名です。その降伏式中ミズーリの甲板は二枚の星条旗で飾られていました。一枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物、もう一枚は1853年の黒船来航時にマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた物であり、約90年越しの勝利として日本に二度目の屈辱を与えました。


私は以前にハワイのパールハーバーでこの船に訪れた時に右舷艦尾のかすかなへこみが上述の日本の特攻機によるものだと知り衝撃を受けました。

19歳という若さで護国のために特攻した石野節雄二等飛行兵曹を深く尊敬しかつ感謝するとともにこの世の地獄と化していた沖縄を死守するために特攻で命を散らした方々へ鎮魂をお祈り申し上げます。
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by shirayuribeauty | 2007-04-11 14:43 | その他