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乳頭縮小術
乳頭縮小は乳頭のサイズを小さくする方法ですが手術の方法として大きく分けて三つの方法があります。

一つは「楔状切除(せつじょう・けつじょう切除」であり乳頭の上から楔型に切り込みをいれて小さくする方法です。
長所は手術自体が簡単で乳頭の基部構造を痛めないため壊死等の心配がほとんどありません。
短所は乳頭上部を大きく楔状に切除し縫合するため乳管が閉じるため将来授乳の際に一度通管のために御来院していただかないといけない点です。

二つ目の方法はLewis法と呼ばれる方法でまず乳頭の基部をバウムクーヘンのように切り取り高さを減じて、残ったきのこ状の頭部を何箇所か側方楔状切除をおこなって全体のサイズを小さくする方法です。
長所は乳管を温存するため将来の授乳の際に通管するために来院しなければならないという煩わしさがありません。また次に紹介する単純切除縫合術のように術後頻回に通院を要するということもありません。
短所は基部を切り取るため血行不良になるリスクがあります。その結果最悪の場合には残存乳頭の壊死という状態になる危険性があります。 また手術自体も細かい作業が必要となるため前者の楔状切除法と比較して手術時間が余計にかかります。

最後の一つは単純切除縫合術であり術後創部の処置のため上記二つにくらべて頻回に通院を要しますが乳管の損傷も生じないで最も安全に乳頭縮小が行える方法です。

今回ご紹介の患者さんな単純切除縫合法で乳頭縮小術をお受けになられました。

上段:術前です
下段:術後約3週です (写真は患者さんの快諾を得て供覧しています)
乳頭縮小術_d0092965_023428.jpg

順調にきれいに小さくなられました。 
# by shirayuribeauty | 2006-12-11 23:59 | 美容外科
埋没二重形成術
埋没二重形成術は美容外科では非常にポピュラーな手術です。

たかが埋没されど埋没であり美容外科医を志す医師の入門中の入門の手術となりますが奥が非常に深いのも埋没二重形成術です。

この埋没二重系施術は原理的には簡単な原理にて二重を形成しているのですが、何事もそうですが最初に考案した人はすごいと思います。

歴史的にはいったい誰が考案したのかは残念ながら私にはわかりません。

すくなくとも戦後の十仁病院では行われたということですから今では鬼籍に入られている十仁病院の創始者である梅澤先生が開発されたのかもしれません。

昔は7-0ナイロンとか8-0ナイロンとか細い糸がなくなんと人間の髪の毛で埋没二重を形成していたそうです。  

日本の美容外科のジャイアントである勝間田先生から一般的な教科書等に記載されていないそのような美容外科の歴史や技術についてのお話を伺う度に先達なる先生方の創意工夫に驚かされます。

今回ご紹介の患者さんは埋没法にて二重形成を御希望され両眼に埋没法を施術いたしました。
上段:術前です
中断:術直後です
下段:術後2週間再診時です
埋没二重形成術_d0092965_2237823.jpg

術式は埋没法原法にならって髪の毛で行っています。



・・・・・・というのは嘘です。   7-0ナイロン糸で行いました。

より綺麗になられた瞳がまぶしかったです。 これからも幸多くありますように!
# by shirayuribeauty | 2006-12-10 22:50 | 美容外科
航空公園、硫黄島からの手紙
先週一週間は所沢の方に研修をうけにいったりと色々とあわただしい一週間でした。
私は所沢にいくまで知らなかったのですが所沢はわが国最初の公式飛行場が誕生した場所であり1911年4月5日に公式飛行場で初飛行がされた場所とのことで航空公園がありました。
航空公園、硫黄島からの手紙_d0092965_3531282.jpg

日本人による初飛行自体は1910年12月19日 東京代々木練兵場における公開飛行にてフランス留学で飛行術を習得した徳川好敏工兵大尉がフランスより持ち帰ったアンリ・ファルマン3型(1910年型)複葉機により達成されているそうです(この記録は公式飛行場で達成されたものではありませんでした)

ライト兄弟の初飛行よりもさかのぼること12年前の1891年カラス型・玉虫型飛行噐を開発した 二宮忠八(にのみやちゅうはち)は奇人変人扱いされて資金協力もなく実機製作できなかったことは残念なことでした。 追試験では彼の設計図で飛行することが確認されています。

公園内には航空整備兵の像がありました。
航空公園、硫黄島からの手紙_d0092965_3532343.jpg

彫刻家故長沼孝三氏が1943(昭和18)年の第2回大東亜美術展に出展したもので、翌19年5月21日に所沢航空整備学校内に建立され、翼を抱き、空を見上げる航空整備兵3人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていたそうです。

9日未明に同日公開の「硫黄島からの手紙」を観に行きました。
航空公園、硫黄島からの手紙_d0092965_3545514.jpg

本を読んでも映画をみても悲しい戦いです。 憲兵をことさらいやらしく描いているのがややひっかかりましたが米国人がこのような映画を作ったことは評価します。

若い看護婦さんが硫黄島での玉砕戦を知らなかったのでびっくりしましたが大東亜戦争の経緯のみならず竹島や北方領土の問題すら触れない学校が多い現在の学校教育では仕方がないのかもしれません。

硫黄島以外にも多くの島嶼(とうしょ)で日本人守備隊が玉砕しています。
より多くの人々に記憶にとどめてもらえるようにここに記載します。

1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月1日:マーシャル諸島クエゼリン環礁守備隊(ルオット島)玉砕
1944年2月3日:マーシャル諸島クエゼリン環礁守備隊(ナルム島)玉砕
1944年2月4日:マーシャル諸島クエゼリン環礁守備隊(クエゼリン島)玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊(エンチャビ島、エニウェク島、メリレン島)玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕

他にも無名の島々で多くの方がお亡くなりになられたと思います。
硫黄島は映画にて一躍有名になりましたが硫黄島を含め多くの島嶼(とうしょ)で国防に殉じられた日本人守備隊の方々に感謝の意を表明すると共にご冥福をお祈りします。
# by shirayuribeauty | 2006-12-09 23:59 | その他
大東亜戦争(だいとうあせんそう)開戦記念日
今日はいわずもがな

1941年12月8日 大東亜戦争(だいとうあせんそう) 開戦記念日です。

大東亜戦争 すなわちアメリカのいうところの太平洋戦争、イギリスのいうところの極東戦争は今から65年前日本がマレー半島コタバル上陸、真珠湾攻撃を行い始まりました。

当時、非欧米の国々は日本、タイ、チベット、エチオピアを除いてはみな列強の植民地、準植民地、あるいは属領であり日清、日露戦争と超大国相手に自国の独立を賭して生き抜いてきた日本が米国という超大国に禁輸処置をされた挙句の自存自衛のための三度目の大博打(だいばくち)戦争でした。

日清日露以降の日本の外交努力をすべて否定するハルノートを突きつけられやむなく自存自衛のために開戦にいたったものであり米国の植民地化、属領化を目指して行なった戦争ではありません。

有名な永野修身(ながのおさみ)軍令部総長の開戦前の言葉ですが
「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、
戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。
戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。」 

戦う前から計算上は勝算がほとんどなく昭和天皇の意向の親英米路線に沿うべく必死に努力した外交努力も万策尽きて戦わざるをえなかった当時の指導者達が苦渋(くじゅう)の決断をしたことは想像に難くありません。

あの戦争を避けるには満鉄(まんてつ:満州鉄道)共同経営としてアメリカの鉄道王ハリマンを迎え入れればよかっただの南印進駐をするべきではなかっただの日独伊三国同盟をするべきでなかっただの議論しだせばきりがありませんが日本側の問題点としてはつまるところ石油を米国に握られているのに対米戦略的に錯誤を重ねそれを正せる意思決定システムがなかったという点になると思います。当時の英米の問題点としては基本的に人種差別の価値観がベースにありアジアでの彼らの権益の保護のためにも日本をいずれは屈服させようという意思があったことでしょう。

個人的なロマンとしては1881年に当時独立国であったハワイのカラカウア王が日本へ訪れたときいずれ米国の属国になってしまうことを恐れた王が(その予見は残念ながら当たってしまうのですが)日本の天皇家の山階宮定麿王と、王の姪で王位継承者のカイウラニ姫を結婚させて日本ハワイ同盟を作ろうと明治天皇にもちかけたとき、もし明治天皇がお断りせずお受けしていたら世界史は変わっていて満州国は理想郷として栄え大東亜戦争もなかったかもしれないという空想が楽しいです。

以前に真珠湾のアリゾナ記念館に行きました。
アリゾナ記念館は戦艦アリゾナが沈んだ海上の上に立っている白い建物です。その近くの陸地に資料館がありました。資料館では当時の写真が展示されていましたがある写真の前で私は立ち止まりました。 その写真は米軍に撃墜(げきつい)されたと思われる日本兵の遺体が海上に浮いているものでした。 日本国内の資料館で米兵の遺体をさらしている写真などみたことがなかった私にとっていくら旧敵国人だったからといって今でもこうやって晒(さら)すのかと怒りに震えました。

当時の真珠湾攻撃はかなり正確に軍事施設のみを狙って攻撃をしていました。 しかし米国は焼夷弾(しょういだん)等を用い日本の民間人の大量虐殺(ぎゃくさつ)および原爆を用いて無辜(むこ)の人々の大量虐殺を行い日本を屈服させました。

そのような非道の限りをつくした米国が戦後極東(きょくとう)軍事裁判で事後法でA級戦犯なるものを捏造するのは噴飯ものの茶番劇であり日本人として受け入れることのできないものですがいまだそれが政治の世界では問題になるという現実を鑑(かんが)みれば日本人の中に根深く蔓延(まんえん)してしまった病理の深さは相当なものだと思います。 

かつての日清戦争ではロシア、フランス、ドイツの三国干渉にて遼東半島(りょうとうはんとう)を清国に返還させられ、その屈辱は当時の福沢諭吉に「ならぬ堪忍するが堪忍」と言わしめ 三宅雪嶺は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と唱え、日本人はじっと耐え日露戦争を勝利と導きました。 

敗戦国日本の空は横田空域なる広大な空域が米軍の管理下に置かれ日本各地にも米軍基地があります。 60年以上も他国の軍隊が駐留しているのも異常な状態です。
「ならぬ堪忍するが堪忍」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の気持ちでいつか日本が本当の独立国になることを願っています。

1941年12月8日、欧米列強によるアジア植民地支配の歴史を覆す新たな歴史の一ページを開いた真珠湾攻撃に命をうけ日本の自存自衛のために命を賭して戦ってくれた方々に感謝します。
# by shirayuribeauty | 2006-12-08 03:19 | その他
えくぼ形成
今日はえくぼ形成の患者さんの紹介です

エクボ形成は一般的な美容外科の教科書には載っていませんがずいぶん前から十仁美容外科においては存在していた術法であり誰が研究開発した手術かはっきりしません。

美容外科手術の大ベテランの勝間田先生によると昔はエクボが大変流行り需要があった手術だそうです。

今回ご紹介の患者さんはエクボを作りたいとのことで口腔内切開法にてエクボ形成を行いました。
上段:術前 [閉口時] および [微笑時] です
中段:    [術直後]です
下段:術後約1週間再診時 [閉口時] および [微笑時] です
(写真は患者さんの快諾を得て供覧しています)
えくぼ形成_d0092965_3464838.jpg


術後一週間ではまだ腫れがありやや頬が黄色いですが微笑むとかわいいエクボができています。
# by shirayuribeauty | 2006-12-06 23:53 | 美容外科