今日は1953年に日比両政府がフィリピンのモンテンルパ刑務所に収監されていた日本人戦犯106名の減刑・釈放に合意した日になります。
ああモンテンルパの夜は更けて という歌を知っていますか?
この歌はフィリピンの日本人B級戦犯死刑囚により作詞作曲され、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡辺はま子氏になります。
1952年大東亜戦争終戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいました。その異国の一つにフィリピンがあり日本人戦犯はモンテンルパ刑務所に収監され処刑されていっていました。
渡辺はま子氏は「ああモンテンルパの夜は更けて」のレコード化に奔走して、遂に大ヒットさせました。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くがフィリピンにおける同胞の悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まりました。
1952年年12月24日、歌手・渡辺はま子氏のこの歌がモンテンルパの刑務所の中を流れました。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子氏は振袖を着て歌いました。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえたといわれています。会場にいたフィリピンの元駐日大使デュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めましたが多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もいたとされています。
しかしこの「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーがそれを聞いたフィリピン大統領のキリノ氏の心を動かし日比両国の日本人戦犯106名の減刑・釈放合意につながりました。
フィリピンは1898年6月12日独立宣言するも米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ人により無残に虐殺され1946年7月4日に米国から独立の承認を得るまでに実に50年近くの歳月を要した国になります。
本日ご紹介の患者さんは他院にて額アパタイト形成術がおありでしたが御希望にて再度額アパタイト形成術をお受けになられた患者さんです。
上段:術前です。
下段:術後10ヶ月再診時です。(写真は患者さんの快諾を得て供覧しています。)
患者さんの御希望としては左眉上外側の辺りをもっと膨らましたいとのことで今度また額アパタイト形成術を行うこととなりました。
額アパタイト形成術のリスク
・小切開法では完全にツルツルの額にすることはほぼ不可能です。 多少の凹凸ができます。
・冠状切開法(
冠状切開法での額アパタイト形成術例)では表面が研磨できるため表面の凹凸の処理ができますが切開線が片方の側頭部から頭頂部前方を通り反対側の側頭部までいたるのでキズ痕が一見脳外科の手術を受けたかのようみえる可能性があります。