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鼻尖縮小術
今日は今から99年前の1908年 に米国への日本人移民に関する日米紳士協約が締結された日です。その24年後の1932年 に日本が満洲国独立を宣言した日でもあります。

1893年、サンフランシスコの市教育委員会は市内の公立学校は日本人生徒の入学を拒否するべきという決議をしました。この決議は当時の日本領事珍田捨巳らの運動によってなんとか取り消されましたが、日本人排斥の動きはその後も活発になっていきました。
1901年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を中央議会に送りました。1905年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会(The Japanese and Korean Exclusion League)」が組織され(のち「アジア人排斥協会(The Asiatic Exclusion League)」に改名)、日系移民に注がれる視線はいよいよ厳しさを増していきました。
1906年、またしてもサンフランシスコ学務局で日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定がなされました。
1907年3月、ルーズベルトは大統領令(Executive Order)を発布、ハワイ・メキシコ・カナダからの日本人の転航移民を禁止するとしました。この大統領令の背後にはサンフランシスコの学童隔離問題は結局のところ排日世論が形をとったものであり、移民制限をするしか解決策がない、と米国政府が考えていた事によるとされています。

アメリカにおける日本人移民排斥の動きが日本の体面を傷つけることを恐れた日本政府は1908年、日米紳士協約(Gentleman’s Agreement)なる取り決めを米政府と結ぶこととなります。

一般の観光旅行者や学生など以外の日本人にアメリカ行き旅券を発行しない、すなわち日本人労働者にパスポート発行を停止するという協約でした。

この協約と引き換えによりルーズベルトは日本人児童隔離命令を撤回させます。

しかしその後も1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立し日本人移民は土地所有が禁止され1924年5月26日にはいわゆる排日移民法が米国連邦議会で審議され成立しました。その5日後の5月31日、赤坂のアメリカ大使館脇で、ある日本人が抗議の割腹自決をしています。

アメリカが連邦レベルで移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限を撤廃するのは大東亜戦争終結7年後の1952年、カリフォルニア州で人種による土地所有・賃借の制限が消滅するのは大東亜戦争終結12年後の1957年のことでした。



1919年2月13日国際連盟規約委員会にて当時常任理事国であった日本が提案した
人種あるいは国籍如何(いかん)により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す と言う条項、いわゆる「人種差別撤廃条項」が採択されていたら歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ペリーの開国要求から始まり尊厳を踏みにじられ続けて当時の多くの日本人の深層心理が「対米決戦やむなし」と思っていたと思われます。それが大東亜戦争開戦の判断をさせた一遠因になっていたことでしょう。


さて今日は鼻尖縮小術後(オープン法)の患者さんのご紹介です。
上段:術前です。
中断;術後一週間目再診時です。
下段:術後三週間目再診時です。 (写真は患者さんの快諾を得て供覧しています)
鼻尖縮小術_d0092965_2354311.jpg

順調な経過です。 オープン法の傷がやや赤いですがこれは半年かけてだんだんと目立たなくなっていきます。
 
by shirayuribeauty | 2007-02-18 23:22 | 美容外科
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