今日は1974年 に
小野田寛郎(おのだ ひろお)氏がフィリピン・ルバング島から30年ぶりに日本に帰還した日になります。
大東亜戦争終戦の1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵:1949年投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続しました。最後の2年間は一人で戦っていました。
小野田氏は持久戦法をたてて米軍に挑み、島内にあったアメリカ軍レーダー基地への襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、友軍来援に備えて合計百数十回もの戦闘を展開しました。
1974年に一連の捜索活動の結果発見され、3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田氏にとっての戦争は終わりました。翌3月10日にかけ、小野田氏は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告を行っています。小野田氏はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示しました。この時、小野田氏は処刑される覚悟だったと言われています。
小野田氏は日本に帰国後は大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後に次兄の居るブラジルに移住して小野田牧場を経営を開始しました。帰国後結婚した妻の町枝氏と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させました。その後、凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めたとして『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾
小野田自然塾を主宰されていました。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けていらっしゃいましたが2014年1月16日鬼籍に入られました。
小野田氏は帰国後 見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付された方でした。
約30年間のジャングルでの国防のための戦闘および帰国後日本のためになされた諸活動にたいし深く深く敬意を表します。
本日ご紹介の患者さんは脂肪移植豊胸術後約7年再診時 (一年に3回の脂肪移植を2クール お受けになられた患者さん)になる患者さんです。
術後7年経ても戻らず豊満な乳房でいらっしゃり 手術前との比較において定着がよく変化が非常によかった患者さんの一人です。
左: 術前です 右: 脂肪移植豊胸術後約7年再診時 (一年に3回の脂肪移植を2クール お受けになられました)
脂肪移植だけでこれだけ乳房が豊かに変わられ長期間しこりなく結果が維持されていて良好です。
ただマンモグラフィーでは1mm以下ぐらいのサイズのカルシウムの沈着とみられる粒粒が散在しているのが指摘されたとのことでした。
それでも手術をお受けになられたことに後悔はないとことでした。
またの御来院をお待ちしております。