今日は75年前の1937年に「
通州事件(つうしゅうじけん) 」がおきた日になります。
約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺されました。これにより通州特務機関は全滅しました。男女共に虐殺のされかたがあまりも凄惨を極めていたため日本の対中世論は沸騰しました。
今日はまたその三年後の1940年にリトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理であった
杉原千畝(すぎはら ちうね)がナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人に「ビザを発行する」とユダヤ人難民に宣言した日になります。
杉原氏は少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされています。
日本の外務省からの「ユダヤ人難民にビザを発行してはならない」との回訓に反し、自らの判断でユダヤ人にビザを発行しようと決断するまで逡巡を、のちに杉原千畝自身が回想した手記より以下抜粋。
「最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を、文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、
私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく
百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する
昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。
・・・果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、
対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、
ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、
公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、
それが果たして、国益に叶うことだというのか。
苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、
今も確信している」
(『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊)
杉原氏はリトアニア退去後ヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。大東亜戦争の終結後、在ブカレスト公使館で家族と共にソ連に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送りました。
1947年に日本へ帰国するも帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められ退職となりました。
1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞されその翌年7月31日鬼籍に入られました。 享年86歳でした。
職を賭して無辜の人命を救うべく英断を実行した杉原氏の勇気を多くの日本人は学んでほしいと思います。
本日ご紹介の患者さんは既往として他院にて埋没二重形成術、目頭切開術をお受けになられたことがある方です。 今回 カウンセリングの結果 眼瞼下垂修正術、もうこ襞形成術、鼻根部脂肪移植術をお受けになられました。
上段:術前です。
下段:術後約3か月再診時です。
鼻根部の脂肪はきれいに定着し順調な経過です。
目は二重のラインをもっと幅広くご希望なので修正予定です。
目がしらはご希望の形態と異なるとのことなので修正予定です。
またの御再診をお待ちしております。
追記記事 2013.01.03